新兵衛の覚え書き

見た聞いた読んだ浮かんだ思い出した……を書き留めています。

元寇

元寇……鎌倉時代に蒙古襲来と記されたところからか、現在でも蒙古襲来と使われるのを度々見ます。
蒙古という名は、愚かで古いという意味で、野蛮とも解せるそうです。唐の時代から使われているとか。
音に当てた、単なる当て字だと言う人もいるそうですが、当時のシナ人は周りに侮蔑の意味での漢字を当てていたことから、侮蔑する為に蒙古の字を使ったと思って良いかなと。

日本では、江戸時代に元寇という名が出て来ます。日清戦争前辺りから盛んに使われる様になったとか。
日清修好条規とか日朝修好条規を結ぶ際、相手は倭寇の事を持ち出してグダグタ言って来た為、日本側は元寇を持ち出して返り討ちにしたそうな。

元という王朝は、確かにモンゴル人による王朝でして、支配層もモンゴル人だし、日本を攻める最終命令もモンゴル人のフビライ・ハーンが下しているのですから、モンゴルが攻めて来たというのは間違いではないのですが、元軍を構成している兵にモンゴル人はほとんど居なかったのではないか、という気がするのです。
元自体が多民族で構成されていて、モンゴル人自体の割合はかなり低かったそうです。
何割がモンゴル人だったか分かりませんが、モンゴル高原遊牧民とそれ以外の民族では元々数が違うのです。それ以外の方がかなり多かったのです。
騎馬民族がそれだけ強かったという事でありますが、モンゴル人は随分と少なかった。
元はあちこちに兵を進めていましたが、陸地での戦いはお手のものの騎馬民も、海から攻めるのはてんでダメなんです。
モンゴルが高麗を攻めた時に、高麗王に江華島に立て籠られたままになってしまったぐらいですから。

日本を攻める要の役所(征東行省)は、兵を集める仕事をしており、満洲朝鮮半島北部を管理していた事から、そこから兵を集めたものと考えられます。
海を渡って攻めに行くのに、水に不馴れなモンゴル人を使わして消耗するより、沿海州に住む女直人や契丹人や直轄地の元高麗人や漢人を送り込んだ方が良いでしょうし。
征服地の者達を先に行かせるのは、陸地でも当たり前に行われているのですから、ましてや海を渡るなら自分達は征服した後で行っても良いわけです。
朝鮮半島南部の属国高麗の兵もいますしね。

文永の役では、高麗軍8千で元軍1万5千(水夫など6千7百は高麗国人)が来襲しましたが、元軍にモンゴル人がいたかどうか分かりません。もしかしたらいなかったんじゃないでしょうか。
0人じゃないとしても、ほとんどいなかったんじゃないかと。指揮官にモンゴル人らしき名がないみたいなので、モンゴル人部隊自体無かったと思われます。
弘安の役でも同じ様なものでしょうね。南宋軍の 総司令官にはいた様ですが、南宋軍というぐらいですから、滅ぼした南宋の兵で構成された軍です。モンゴル人部隊はいなかったと思われます。

専門家の今後の研究で何か分かるかもしれませんが、現在のところではやはり『元寇』であって、実質はモンゴル襲来とは言えないのかなあ、と思っています。