新兵衛の覚え書き

見た聞いた読んだ浮かんだ思い出した……を書き留めています。

赤穂浪士と天皇尊崇

江戸時代の前期に、山鹿素行という思想家がいました。
軍学者でもあり、山鹿流兵法というのを伝えています。
山鹿流には山鹿流陣太鼓というのがあるそうです。
ドドドドドンは退却とかドンドドドンは前進とかあるんでしょうね。実際はどんななのか知りませんが。

この山鹿素行が大いに影響を与えた藩に、赤穂浪士討ち入りで有名な赤穂藩があります。
四十七士は、陣太鼓を打ってから吉良邸へ討ち入りました。
陣太鼓の打ち方は幾つも存在したんでしょうが、何故山鹿流陣太鼓だったのでしょう。
これは、山鹿素行が江戸所払いになったのを見て、赤穂藩の藩主が山鹿素行を召し抱え、素行に藩の家臣や跡取りの教育を行わせたからです。

山鹿素行を召し抱えたのは、吉良上野介に切りつけた(実際は刀の峰で打っただけ)浅野内匠頭の父親です。
山鹿素行は、全国的に知られる人になっていました。その思想は大変人気があり、武士はおろか庶民にも広く知られる様になっていました。農民でも穢多でも字を読める人は多かった日本ですから、武士ならずとも素行の書物を読む人はいたんでしょうね。
現在でも、読んでないけど概要は聞いた事があるなんてな人は沢山います。江戸時代だって同じだった様ですから、地方の村々にまで「へえ、偉い先生なんだなあ」的に知られていったと思われます。

そんな大先生が江戸所払いとなったのは、天皇を中心とする国が1番である、と説いたから。
幕府も、それが正論だとは思っていたから、所払いで済ましたのですかね。
政治権力の頂点に立つ将軍としては、山鹿素行をそのままにしておいたらマズいわけです。せっかく日本を纏め上げて、戦の無い社会を続けているのに、そんな事を言って煽るな、又世が乱れたらどうすんだ!という事だと思いますが、江戸から追い出してしまいました。
死刑にするとかしなかったのは、山鹿素行が言ってる事自体は否定できなかったからなのではないかと。
天下のお膝元の江戸でそういう事言ってもお咎めがないなら、全国で勘違いして暴れる奴が出て来るかもしれませんから、それは流石に何か罰を与えないとマズいってんで、所払いで茶を濁したのかしら。

江戸から放り出された山鹿素行を拾ったのが、赤穂藩の殿様。素行の考えを理解していたからこそ、召し抱えたのでしょう。
殿様は、素行に家臣や自分の家族の教育をさせました。
その結果、赤穂藩士や若様も天皇を尊崇して国を想う者となるのでした。
藩の重職を担う上級家臣達は、藩の政治に携わっていた関係でしょうか、ガチガチの思考にはならなかったのでしょう、藩の取り潰し後散って行きます。
しかし、実動を担う中下級家臣は思考が緩くない者が多く、討ち入りをした者の多くはこれらの者でした。

浅野内匠頭吉良上野介を襲ったのは、天皇の勅使が将軍の下座だったのを上座に直す様に訴えるのが目的だったのだと思います。
騒ぎを起こせば、流石に将軍の耳に入るだろうと考えたんですかね。
元々は、天皇の勅使は上座だったのですが、足利義満の時に下座にさせられてしまってからズッとそのまま。江戸幕府になってもそのまま。つまり神君家康公も上座だったのですから、元の位置関係に戻したら家康が間違っていた事になります。
それを認めるワケには行かないですわなあ。
浅野内匠頭は、即日切腹となり、赤穂藩はお取り潰しとなります。

浅野内匠頭切腹してから一年八ヶ月後の12月14日、吉良上野介を討ち果たします。
翌年2月4日に皆は切腹しました。斬首ではなく、切腹です。
名誉は護られたと言えます。
切腹の沙汰が知らされた時に、浪士達は次の事を聞かされます。
『今より百年後、将軍綱吉公の遺言により、その方達の願いは叶えられるであろう』

どういう経緯で松の廊下の刃傷になり、討ち入りとなったのか幕府は解っていた様です。
詳しい事を、世間にも知られる様流したんでしょうね。
芝居が流行り、それを楽しんで観ながらも、本当の事は後世まで語り伝えられたとの事。
勅使との位置関係を元に戻すとして、神君家康公の名を傷付けずに済ますにはコレが良いだろうと、将軍を交えて会議を行って決めたのでしょうね、『遺言として百年後に』に。

百年後、位置関係は元に戻されたのでした。