新兵衛の覚え書き

見た聞いた読んだ浮かんだ思い出した……を書き留めています。

慰安婦……まだ四の五の言ってるの?

慰安婦は居なかった」は誤り。「従軍慰安婦は居なかった」が正解。

慰安というのがあります。心をなぐさめ、労をねぎらう事を慰安といいます。
戦地にいる将兵は大変なわけです。それで、芸人が芝居を観せるなり歌を聴かせるなりする為に慰安に行きました。
芸で慰安をする人達は男女共にいましたが、慰安婦とは呼びませんし、慰安夫とも呼びません。
慰安夫は存在しませんでしたが、慰安婦は存在しました。芸人などではない人達で、慰安婦と呼ばれる人達が存在したのです。

芸をしない慰安婦って、将兵をどうやって慰安したのでしょう。休暇を取った将兵が集団になって、何処かへ旅行でもする際にガイドをする女性でもいたんでしょうか。
そんなものは存在しません。戦地で集団旅行など有るわけないですから。
では、どんな慰安をしたのかといえば、それは遊びの相手をする事だったんです。
どんな遊びかといえば、性の遊びでした。
当時の性の遊びに本番無しなんてありませんから、性の遊びといえば性交となります。
将兵の性交の遊び相手をして報酬を得ていた人を、『慰安婦』といいます。
早い話、売春婦という事です。

現在でも、国から認められた人は売春しても良い、という国があります。
認められた人を公娼といいます。公に認められた娼婦(売春婦)という事で公娼というのですが、慰安婦は公娼だったんです。
日本の将兵のみの性の遊び相手をする公娼を慰安婦といいました。日本の将兵のみの相手をする公娼が居る所を特殊慰安所と呼んだので、この公娼を慰安婦と呼んだわけです。

戦地といっても、戦闘が行われていない都市や村は沢山あります。娼館も有るし立ちんぼも居たので、どうしても将兵は遊んでしまうわけです。それで性病に罹り、軍務が行えなくなってしまう将兵が大量に出る事から、将兵専用の娼館を創って対処しようとなったという事です。
認められた者以外は、日本の将兵専用の娼館を経営あるいは性の相手をする事はできませんでした。
娼館を経営するにも慰安婦になるにも一応決まりがあり、これに軍は関与できませんでした。ただし、決まりを守らない業者などには憲兵の介入が有った様です。介入して行政に引き渡していた様ですが、軍政を行うしかない地でも、国が作った決まりに従って行われていた様です。
軍が慰安婦とか業者を募集する事はできませんでした。娼館を経営しようとする者がいなかったり、慰安婦になろうとする者がいなければ、軍は諦めるしかありませんでした。
が、当時の大日本帝国は貧しい人が多く、それなりに慰安婦は集まりました。
物凄く戦線を広げてしまったので、慰安婦の数は不足していたと聞きます。しかし、軍が慰安婦狩りをしたという確たる証拠はほとんど出て来ていません。
稀に、インドネシアのスマランで白人を収容所から連れ出して性の相手をさせたという事件はありましたが。

従軍慰安婦』というものはそんざいしなかったと前述しましたが、商売相手の軍の移動にあわせて移動する娼館も有ったそうです。野戦病院ならぬ野戦特殊慰安所というわけです。
街中に館を構えるより危険なんですが、付いて回る業者が存在しました。軍の強制ではなく、業者の意向です。
夜間、慰安婦の居るテントに兵が忍び込まない様に衛兵が立ったそうです。
戦況が危なくなりそうなら、安全な地に送り届けていたとの事。危なくなりそうならサッサと移動出来たわけで、従軍とは違います。従軍看護婦の方が危険度は高かったのです。
慰安婦の中には、自分の意志で看護助手的な仕事に加わった人も居るそうで(朝鮮人慰安婦)、それが後に「従軍慰させた!」にされてしまったものもあるやに聞きます。
看護に加わる義務は無いのに、日本国人としての使命感が強かったのか、朝鮮人兵の戦傷兵を放っておけなかったのが動機なのかは分かりませんが、参加しています。
看護も兵と一緒に戦っていると言っても良いのですから、本人は誇りに思ったのかな、と。
そんな思いで語った事が、「慰安婦を従軍させた!」に利用されたのかな、と。

再度言います。
従軍慰安婦』は存在しません。
慰安婦』は存在しました。