新兵衛の覚え書き

見た聞いた読んだ浮かんだ思い出した……を書き留めています。

忠臣蔵…討ち入りの原因

昨日、12月14日は赤穂浪士討ち入りをした日であります。

何故浪士達は討ち入りしたのか。

 

元々の原因は、赤穂藩の皇室尊崇によるものの様です。

 

将軍から天皇への贈り物(献上)の礼を賜る時の、天皇の勅使が下座だったのが問題なのです。

勅使自体は将軍より位は下ですが、天皇の名代なので上座のはずです。が、室町幕府三代将軍足利義満の時代に、当時のシナの明朝からの使者の居る場で、天皇からの勅使にも接しなければならなくなり、日本に義満より上位者が存在するとは明朝の使者に見せるわけにはいかず、義満は勅使を下座に座らせ接しました。その後、将軍と勅使の座が逆転したままになります。

将軍が代替わりした時に元に戻せば良いものを、戻せない理由を忘れてしまったので記せませんが、兎に角室町幕府では上下の座が決まりになって引き継がれて行きます。

それも含めた、武家の礼儀作法全般を預かる家が吉良家でした。室町時代からその役を続けてきた、格の高い家です。

室町幕府では、足利家に将軍を継げる者がいなくなったら(絶えたら)吉良家から将軍を出す事になっていたそうですし、徳川家康の従兄弟が存在した事のある名家で、大変格の高い家です。

吉良上野介も、名家の当主らしくなかなかの人物だったそうで、イジメやらをする様な人ではなかったでしょう。そんな事をすれば、誰か彼かに見聞きされるのは避けられませんから、御家の恥になるような事はしないでしょう。

準備段階における座の位置をやり直させた、という事は有った様です。室町時代からの作法等をシッカリ守っている吉良が、「そうだよね、席が違うよね」と、勝手に将軍を下座にしてしまうわけには行きません。

室町幕府から続けて来た事だけれど、上座下座が逆になっているのだから直したからといって、何か問題があったんでしょうか。

幕府の頂点は足利から徳川に代わりましたが、将軍職は天皇から賜るものですので、将軍に就く家が代わろうと将軍という地位は変わらず存在しつづけます。

その将軍職に傷が付く事があるんでしょうか、上座下座を足利義満以前に戻したら。

あるんでしょうね、きっと。

 

赤穂藩は、天皇の勅使を迎える役目を仰せ使うのは二度目でした。

実は、一度目の時にも赤穂藩の家臣から「上座下座が逆なのはおかしい!」と、内匠頭は詰め寄られていましたが、私に免じて堪えてくれ、と何とか家臣を抑えることができました。

赤穂藩は、殿様も家臣も山鹿素行からの教えがシッカリ染みておりました。「情けないとかダメな上司(主君)は見切りをつけて離れてしまいなさい、他人なんだから」という教えがあり、内匠頭自体家臣が離れてしまうような殿様でいたくはなかったでしょう。何せ内匠頭も皇室尊崇ですから。

内匠頭は優秀な人だったのでしょうね、一度は家臣を納得させたのですから。

 

しかし、二度目ともなるとそうは行きませんでした。内匠頭は家臣の想いを受け入れ、将軍…せめて老中に話を聞いてもらうだけでもとの思いで、殿中にて吉良を打ちつけたのでした(切りつけたのではなく、打ちつけたのが正確)。

たかだか2万数千石の小大名の話自体、将軍や高級幹部が聞いてくれる様な機会さえ無かったからこそ、内匠頭は刃物を抜く行動に出たんでしょう。話を聞いてもらえる場が設けられるかもしれない、と。

でも、そんな事をすればどうなるかぐらいは、内匠頭には判っていたでしょうね。

家臣が、吉良を打ちに行く様な行動をとるとまでは思わなかったかもしれませんが、藩が無くなる事ぐらいは想像がついたのではと。

 

家臣は勿論、内匠頭も天皇の勅使が下座であってはならない、と強く思っていたからこその事件なのです。

 

江戸幕府は、皇室を散々コケにして来た様な言い方をする人がいますが、ガッチリ監視したのは事実ですが、治安を預かる幕府としては仕方のない事だったのであり、皇室尊崇はしていた様です。

だからこそ、書面にしないで口頭で、綱吉公亡き後百年先には勅使は上座になる、と大石内蔵助に告げられたのでした。百年後、本当に勅使は上座になりました。

将軍が皇室を尊崇していなければ、絶対上座にはならなかったでしょう。

 

こういう事件の事も、皇室は聞いていたんでしょうね。聞いて考え思いをめぐらし、天皇という存在がどういうものか伝えられて来たのだと思います。それが明治天皇に伝わって行ったのでしょう。

そして、それは現在まで伝わっている様ですが、皇室に招かれる家庭教師?の思想に物凄い問題があった様で、秋篠宮家の内親王殿下の発言は「皇室の御方がそんな考え?日本の国体が壊れちゃいますよ」と言いたくなる内容で、とても困惑しています。