新兵衛の覚え書き

見た聞いた読んだ浮かんだ思い出した……を書き留めています。

モンゴル襲来…とは呼ばない。古くは蒙古襲来、やがて元寇と変わって行きました。

モンゴル人を支配者とする元が日本へ攻めて来たのは1274年、2回目が1281年。

モンゴル帝国といえば、シナ地帯から中央アジアや中東や東ヨーロッパ(ロシア含む)まで支配下に置いた、歴史上最大の帝国です。
帝国のトップ、大ハーンのフビライの直轄地を元といいます。元の範囲は、現在の中華人民共和国の国土より広く、ウイグルは東半分ぐらいだったものの、南は今と変わらないぐらいで、北は現在のモンゴルはおろかその北部まで広がっていました。
現在のロシアの領土である沿海州も元の支配下にありました。戦前でいうところの満洲、現在の中国東北も朝鮮半島北部も元の直轄地でした。
元軍として攻めて来たのは、この東北地方や朝鮮半島に暮らしていた人達が中心(ほとんど)だったのでは、という話もあります。

モンゴル帝国の直轄地に住んだからといって、モンゴル人とはされなかったのが当時。帝国人ではあってもモンゴル人ではありません。女真人だの契丹人だの漢人だの高麗人だの諸々住んでいて、その人達が動員されたのが元寇だったのかもしれません。
支配層のモンゴル人にしてみれば、陸地の移動しながら戦をするのは得意でも、「海渡ってまで行きたくねえよ」だったでしょうね。
河でさえ馬で渡れない河があるのに、回りは見渡す限りの深~い水だらけなんですから、被支配者達に行かせるに限るわけです。
記録によれば、1274年は高麗軍8000人、元軍15000人、水夫等6700人となってるそうです。
高麗兵は、半島南部の属国高麗の出した兵だというのはわかります。
では、15000人の元軍の民族構成はどうなっていたのでしょう。
元の直轄地からの軍は元軍であってモンゴル軍ではありません。
高麗朝廷や政府が江華島に籠った30年間、モンゴル等の騎馬民族は、高麗の内紛からの高麗水軍の助けがなければ三別抄を叩きだせなかったんですから、水にはてんで弱いのです。
で、高麗人や旧高麗人や契丹人や女真人や漢人を行かせた、とも考えられます。

朝鮮半島の近くには、半島や満洲辺りを管轄する省が設置されていて、日本への侵略戦の為の実務はこの役所が行っていたようで、高麗に命令できる立場にあった様です。支配側は、先に支配下にある連中を行かせる様に手配するのは普通です。まして「海なんてえたいのしれないものを渡ってまで行きたくねえよ」になるでしょうから、他族を送り込んだと思うのです。
従って、蒙古襲来ではなく元寇が正確かな、と思うのです。

因みに、旧高麗人には、遼寧省辺りに強制移住させられた人々やその子達、元の直轄地になった半島北部に住んでいた人達、自ら進んで元人になった人々とその子達がいます。
旧高麗人と高麗人同士で上下関係を付け、優位に立とうとしていたといいますから、何やってんだろうと思ってしまいます。
格付けは、①強制移住させられた高麗人②元直轄地にすむ半島北部の高麗人③半島南部の高麗国に住む高麗人…だったとか。
①は②を、②は③を蔑み差別して威張っていたとか。
ありゃりゃりゃ……。