憲法を読めば、宗教団体との分離と解せる。
宗教の行事には民の暮らしに根付いているものがあり、習俗として観られる。
しかし、それって教義の中にあるものなのか?と言われるものがある。
「盆」は宗教の教義にあったのだろうか。
宗教を、科学では証明出来ない事を信じ行動する事、にまで広げるなら「盆」も宗教行事のひとつとなるが、「盆」が何れかの宗教によって説かれて以降人々が初めて意識したのだろうか。
元々、仏教には先祖霊のお迎え的な教えなど無かったという。
霊という存在は、科学では証明されるには至っていないけれど、インドであろうがシナ大陸であろうが日本であろうが、霊という存在は認識されていたようだ。
人智を超えた存在・世界の話が語り伝えられて来たからこそ、如何に生きるべきかの教えと結びついたと思われる。人智を超えた世界へ至るまでに心掛けねばならない生き方を説くのが宗教になって行ったのかなあ、と。
ユダヤ教やキリスト教やイスラム教は、最初からそのようであるが、心の処理を説いていただけとも言われる仏教も、いつの間にか人智を超えた存在や世界と結びついて行く事となった。
霊の存在を信じるだけでも宗教の様に言う人がいるが、それは極端だ。存在を信じてはいても、信仰しているわけではないのだから。
霊であろうが生きている人間であろうが、ゾンザイにされたら暴れたくなる、そう思うのが人間だろうから、先祖供養自体は宗教とは言えないというのが私の考え。
かといって、暴れられると恐いとばかりに、それにしばられるのはどうかとも思う。自分が存在しているのは、先祖から親まで繋いで来てくれたからであるから、それに感謝するのは悪い事ではない。感謝の無い者は、現世での暮らしに何らかの悪影響があるだろう、という事。
感謝されない先祖が怒って祟る、とかではなく、感謝の無い者は人間関係において悪い影響があるかも、という事。
勿論、霊など信じていなくても感謝の気持ちを持つ人は沢山いるだろうけれど。
霊など、人智を超えた存在を信じ、それに対する行いが習俗化しているものに、地鎮祭がある。
神道も宗教に含んでいるのが現在だが、神道は宗教なのだろうか。
教義があるとかないとかで言い争うのを見るけれど、神道は元々語り伝えられて来た事を行う専門的な人が出て来て、その人達によって語り伝えられて来たものが纏められたに過ぎないのではなかろうか。
過ぎないといっても、軽く扱うわけではないけれど。
これをこうしたら効率が良いとか、これを使ったら仕事が早く進むとかは日常にゴロゴロしている。
それは教義でもなんでもない普通の光景だ。
お世話になった人や会社に礼をするとか、何かをする前に挨拶しておくとかするのと同じで、神道は対象が人智を超えたものというだけなのだろうと。
魔を封じ込める為に注連縄を張るなんてのがあるが、暴力団封じ込めには警察、なんてな風に考えれば解りやすいかもしれない。
神道は、神の啓示を記録するなり話を伝えるなりして「これに従え」といって成立したものではないから、教義がない。人智を超えた存在に応ずる為の生きる知恵とも言えはしないだろうか。
地鎮祭も応ずる行為のひとつでしかないとするとして、それを行うのは人間である。人間である以上食べなければ生きて行けないのだから、公金といえど謝礼を払って何が悪いという事になる。日本の民に根付いた習俗を行なっているだけである。
神職が、団体を創って政治的な提言を議員にしたからといって、神職の、習俗的な行いに対する謝礼とは関係ないと思う。
玉串料だとて、関係ないと私は思う。
神職の団体にしても仏教の団体にしても、それぞれ考え方があり、それは自らの信じるものを元とするのは自由である。
信じるものを元とした団体が政治的提言をしようがしまいが、自由である。団体に、特別な権利を与えたり施行させたりしなければ良いのである。
神社は、ある時教祖が出現し、それが広まると共に建てられる様になったものではない。この土地で自然に出来て来たものだと考える。参る先(神社)を管理してくれる神職が居なければ、参る先が無くなってしまうではないか。
神への捧げ物(金銭)を、神から神職に賜る形で神社を管理し、神職も生きるために賜ったもので食べて行く、で何が悪いか。
政教分離とは、団体が特権を得たり施行したり出来ない様に縛ったものだ。
民に根付いた習俗的な事を行なってもらった事に対する謝礼に、公的も私的もあるもんかね。