新兵衛の覚え書き

見た聞いた読んだ浮かんだ思い出した……を書き留めています。

アイヌの人口

蝦夷(現北海道) が、江戸幕府の直轄地になったのは1807年。その時に人別帳が作られました。
当時、松前地(和人地)と蝦夷地を分けて、和人が蝦夷地に住むのは禁止されていました。
松前地と蝦夷地の人口差は、アイヌの方が4000人~5000人ぐらい多かったのかもしれません。

*(参考数字は、1760年の幕府巡検使の調べでの和人地の人口21600人(アイヌ97人含む)と、1807年の人別帳によるアイヌ26800人。1807年時点の北海道の人口の8割がアイヌだったという資料も有る様ですが、1760年時点での和人地の人口が2万人を超えているので、一時的に何らかの事情で和人の人口が激減したとしても、既に2万人を超える人口を支える基盤が有ったのではないかと思います。)

和人が出稼ぎで漁業に携わる地も限定されていました(因みに、出稼ぎ人の蝦夷地での仕事をして良い範囲は徐々に広げては行きましたが、定住禁止で妻子を連れて来るのもダメでした)。
人別帳を作った時の蝦夷地の定住人口は、ほぼアイヌと言って良いのかもしれません。

私的に気になったのは、人口密度です。
北海道(千島含まず)の面積は約78000k㎡ですが、和人地は10分の1ぐらいです。
26800人と21600人……凄い人口密度の差です。
アイヌの住む蝦夷地(和人地除く)で計算すると、2,61k㎡に1人になり、現在の東京都だと約840人しか人が住んでいない事になります。関東でいえば数千人てところでしょうか。
あの現米国の範囲でさえ推定1000万人のインディアンが居たとも言われているので、それよりもかなり人口密度が低いのです。

アイヌに大地主が結構存在した、というのも納得できます。これだけ人口密度が低いのですから、アイヌには良質な土地は残っていなかったというのは間違いでしょうね。
目端のきくアイヌも沢山居たでしょうから、そういう人が和人相手に地主として楽をして、その子や孫がGHQに農地改革での特別扱いを願い出たんでしょうか。
うまい話に乗って騙されたとか、酒に溺れて土地を売ってしまったとか、そんな事が結構有ったのではないかとか、そもそも地主だったアイヌアイヌ同士で揉める事なく地主になれたのかとか……
こういう事は、純粋に歴史として考えたり調べたりポッと思いついて呟いてみたり出来ると良いのですが、差別だなんだと喧しく叫び、探究自体を押さえつける人達が居るとか。

なんか都合悪い人達が居るんでしょうね。