新兵衛の覚え書き

見た聞いた読んだ浮かんだ思い出した……を書き留めています。

学術から観たアイヌの成り立ち

新年一発目から、人権派?が嫌う話をひとつ。

アイヌ民族の成立はいつ頃か。
アイヌと和人のハーフにも「アイヌ民族なんてものは元々存在しない」という人も居ます。
民族の定義は色々で、細かく観て行くと私の頭では解らなくなりますが、ザックリ言うなら『言葉が同じ』なのが民族なのかもしれません。
しかし、言葉が同じであっても民族が違うという事はあります。
同じ日本語であっても、○○弁が違えば意思疎通が難しいという事がありますが、両方日本民族とされます。
アフリカのルワンダブルンジに居住するツチ族フツ族は、民族紛争が続いています。部族間紛争ではなく民族紛争です。
実際のところ、言葉も習慣も宗教も違わないと言って良い両者ですが、『民族紛争』と呼ばれています、民族内紛争ではなく。
身長や皮膚の色や顔に多少の違いはありますが、同じバントゥー系民族と言われています。
血統や文化で民族を区別出来ない例だと思います。

さて、アイヌ
何をもってアイヌ民族と言うのでしょう。
アイヌという民族は元々存在しなかった、という考えには積極的には賛成できかねます。部族の系統の違いはあれど、民族の範疇に入るかもしれませんからね。
北海道の東とか西とか、噴火湾の辺りとか石狩とか、遠く離れて暮らして時が経ていて、戦争をしょっちゅうしていましたが、和人から見ればアイヌ同士の争いでしかなく、彼らを民族と言って良いかもしれません。

アイヌ文化と呼ばれるものが成立したのは、13世紀と言われています。
13世紀といえば、シナ大陸に起こった元が、樺太アイヌを追い払った頃です。
北海道には、縄文人が居住していました。縄文人といっても、岩宿時代から居住していた人達
の子孫です。
本州以南が弥生文化に移行するも、北海道は移行しないままの時代が続きます。これを続縄文時代と呼びます。
岩宿時代から、人々は北海道の全域に住んでいたかは分かりませんが、縄文時代には全域に住んでいた様です、密度はとても低いでしょうが。
3世紀頃から、オホーツク人が南下して来て北海道の東や北に広がって行き、そこでオホーツク文化が営まれます。
縄文人とオホーツク人が混血して行きながら、オホーツク文化が東や北に広まって行ったのでしょう。縄文人の男は殺され、女は生かされたのかどうか。何れにしても、DNAの解析からは、混血しながら広まって行ったらしいです。

7世紀頃、東北北部からの移住者が増えたそうです。移住先は北海道の西部。
北海道と本州の交易が盛んだった西部に移住するのはおかしくありません。距離が近いですし。
移住して行ったのは、縄文人の子孫だと思います。
この人達が弥生文化を持ち込み、擦文文化を出現させます。
擦文文化は、ドンドン北海道へ広まって行き、全域を呑み込みます。
ただ1地域、東はオホーツク文化がしぶとく残るも、やがて擦文文化の影響を受けたトビニタイ文化と呼ばれるものに変化するのですが、やがて擦文文化に吸収されてしまいます。

13世紀から、擦文文化に替わってアイヌ文化が出現します。
この文化は、オホーツク文化の影響が結構あるそうです。
かといって、DNA的には南下して来た人々が北海道を制圧して行ったというより、続縄文人と混血して広まって行った人達と、擦文文化を創り出した人達の混血が広まったといったところの様です。
言語が日本語と違うのは、縄文人や擦文人よりオホーツク人系の方が武力に優れていたからかなあ、と。
支配する側に言葉を合わせますので、オホーツク系の言葉になったと思われます。
ただし、アイヌの言葉は周辺とも孤立しているそうですから、元々北海道に住んでいた人達の言葉やいくつかの言葉が融合して出来たものではないかと。
日本語も、混ざり合わさって孤立した言語になった様に、アイヌの言葉もそんなかな、と。

南下して来た人々と、地元の縄文人の子孫が融合し、次に東北北部から移住して来た縄文人の子孫が融合してアイヌが成立したのではないかなあ。
和人は、大陸からの人々との混血も結構あった様なので、縄文人の血は薄まっている様です。
縄文人のDNAだけで観るなら、アイヌは和人より琉球人に近いそうです。
しかし、琉球人や和人に無いものをアイヌは持っているため、アイヌは、外部から来た人々が地元民を支配混血しながら勢力を広げ成立した人達ではないか。

ヤマト王権の成立、大和朝廷となり、日本へ。
その過程で、外部からやって来た人達が混血を繰り返しながら北海道で勢力を広げ、北海道の多くの地に住み着いた、といったところかも。
縄文人の子孫は絶滅したわけではなく、西部特に南で生き残っていたかもしれません。
1000年代には北海道最古と言われる神社が創られますしね。

アイヌの成立は13世紀とはいっても、これは文化の成立でしょう。
人種的にはもっと早くから出だしていたと考えます。
13世紀の樺太で、アイヌは元から追われるわけですが、北海道で出現したかもしれない人種が、先祖の地に帰る形で住み着いて勢力を増し暴れまわり、結局元に叩き潰され、多くは北海道に逃げて来たのかな、と。
逃げて来たアイヌは、住み着く土地を求めて住んでいたアイヌも攻撃したかもしれないし、アイヌよりもっと前から住んでいた縄文人の子孫も攻撃したんだろうなあ。

北海道では、圧倒的に人数が多くなったアイヌに対し、縄文の子孫も含む和人は南端辺りにまで勢力圏が狭くなっていた様です。
しかし、狭いながらも徐々に行政的な事が行われる様になっていたところ、15世紀(1457)コシャマインの戦いが起こり、12有った館の11までが落とされます。
結局コシャマイン側は鎮圧されましたが、この件から日本としての北海道の統治が強くなって行きます。
この戦いの原因を、和人がアイヌを日頃から差別抑圧し、少年を殺害したからコシャマインが蜂起したかの如くに言われますが、アイヌの1人が和人の鍛冶職人に注文したマキリ?の出来に納得せず争いとなって……というのが真相だそうで、コシャマインが蜂起したのは過度の抑圧云々ではない様です。

話はそれましたが、アイヌアメリカインディアンとはまるで歴史が違います。
言ってみるなら、縄文人アメリカインディアンと同じと言えなくもありません。
アイヌは、和人によって押し返され、支配下に組み込まれていった、という事なのではと思います。

まあしかし、文化は創ったのですから、保存するのを否定する人は居ないでしょう。
ただし、それを政治活動や飯のタネにされるのは話が別です。