新兵衛の覚え書き

見た聞いた読んだ浮かんだ思い出した……を書き留めています。

豊臣秀吉の朝鮮出兵(慶長編)

文禄の出兵で日本の強さを見せつけた秀吉ですが、慶長の出兵は何故行われたのでしょう。
渡海させる予定の軍の一部を日本に留め置いたまま、時間が経って秀吉は病死して終了してしまいますが、何故渡海させるはずだった軍を留め置いたのでしょう。
渡らなかった徳川家康は、なんのかんの理由をつけて渡るのを引き延ばしているうちに秀吉が死に、戦力を温存できたのが大きかったなんて話もありますが、秀吉が「まだ渡らなくて良い、もう少し待っておれ」と家康を留め置いたとか。

実際のところはわかりませんが、留め置いた説を見てみる事にします。

秀吉が2回目の朝鮮出兵……というより今回は明まで攻め込むつもりだったそうです。
2回目の出兵の原因はスペインにありました。
スペインのアジアの拠点のルソン(フィリピン)のマニラなど、日本にすればどうという事もない弱っちい存在でした。
バテレン追放令が気に食わないなら、何時でも攻めてこい、ボッコボコのギッタギタにしてあげるから……ってぐらい日本は強かったんです。
このバテレン追放令、ある時大層立派な宣教師の拝謁を受けた秀吉が、こんな立派な人物が布教するなら構わないってんで、令は有耶無耶になってしまいます。この時期に、キリシタン大名とか出て来ます。
しかし、ある事があって又々「このバテレンめが!」になってしまいます。

ある時スペインの船が難破しました。幾人かは救助されたのですが、助かった船員の1人がとんでもない事をベラベラ喋ってしまったのでした。
この船員は下っ端だったらしく、スペイン側の駆け引き事情など知らなかった様です。
東洋人を見下すヨーロッパ人モロ出しの人だったのではないかと思います。
見下していた日本人に頭など下げたくなかったどころか、威張りたかったのでしょうね。
スペインの戦略を喋って、偉そうにしているのは今のうち、みたいに言って馬鹿にしたかったのでしょう。
でも、言っちゃったらダメじゃんねえ。

何を言ったかといえば、日本の兵士(武士)達にキリスト教の信者を増やし、頃合いを見計らって信者に反乱を起こさせ、スペイン軍と合同で権力者を倒し、日本をスペインの領土にする、と。
キリスト教を基に国を支配するわけですから、スペイン王が上位に来ます。スペイン王に逆らう事はローマに楯突く事になりますから、信者は逆らえません。
そんな戦略を聞いて、秀吉が黙ってるワケありません。日本人を奴隷として国外に連れ出す連中ですから、「やはり碌でも無い奴らだ」ってなりますわなあ。
個人では立派な人がいるからといって、組織の質(タチ)が悪ければどうしようもありません。
スペインが、シナ大陸の明にも盛んに布教している情報は入っていました。
これが慶長の役となったわけです。

文禄の役で、朝鮮も明もバカバカ蹴散らした日本ですから、その気になれば北京を落とす事も出来たでしょう。
実際、明の資料には日本には全然敵わなかったと記されているそうですから。
ただし、明とスペイン軍の連合となると厄介だと判断した様です。信仰の基に纏まった明は厄介なんです、なんたって数が多いですから。
明に対するスペインの影響が増すほどに、日本はマズい事になります。それで、大人数が纏まる前に叩いてしまおう、と考えたのではないかと。


明は人口が多いだけに、大集団といっても日本やスペインとは桁の違う人数になる事は目に見えています。
しかし、キリスト教という信仰の基に大戦闘集団を形成するには、スペインの影響が強くならなければなりません。
スペインの力が強ければ、宣教師は明に庇護されて布教がはかどるでしょう。
という事は、スペインの力が衰えれば布教も進まなくなるとも言えます。
秀吉は、そういう事も思考していた様です。情報を大事にせず、深く考えずに奢って力押しをする様な人ではなかった様です。
日本に来ていたのはスペインだけではありません。スペインの情報を知らせてくれる国もありました。

秀吉は、スペインのどの様な情報を得ていたのでしょう。たぶん、スペインは斜陽国家だと観ていたのではないかと。
スペインが明を支配出来なければ良いわけで、スペインが明をどうこう出来る力を失くしてしまったと判断できる情報が入るのを待ちながら、「明を我々に取られても良いの?」とスペインを牽制していたのではないかと。
「明の次はルソンだよ〜ん」と挑発までしたかどうかは知りませんが、スペインの動きはしっかり観察していたでしょう。
当時の段階で、ルソン総督に明を動かせる影響力は無かったかもしれません。動かせる様になる為に宣教師は布教を頑張ってる最中だったのでしょう。
最中なので、明の兵士による強力なキリスト教軍団が編成出来るわけありません。キリスト教軍団であればこそスペインが影響を及ぼせるのでしょうが、それが出来ないのですから、スペインは出張るわけにいきません。
スペインが増々隆盛になっていたなら、スペイン独自で戦力大増強し、明に揺さぶりを掛けて布教をドンドン進めたかもしれませんが、スペインは斜陽だったのでそこまでできなかったわけです。

更にスペインの国力が落ちていれば、宣教師を庇護する力も落ちるだろうから布教も進まなくなるだろう。そうなれば明はスペインに牛耳られる事はなくなるだろうから、信者を中心にした明の大集団が攻めて来る事も無いだろう……と秀吉らは考えたかもしれません。
朝鮮に上陸した部隊に形ばかり殴らせて、いよいよスペインの国力が落ちて明の支配どころじゃない、という情報が入れば出兵は終了したでしょう。
これはという情報が入っていなかったので、秀吉は九州の名古屋城で宴会ばかりやってたのではなかろうか。
延々、これはという情報が入って来なかったらどうしていたんでしょう。
2回目の出兵を始めてから1年半後に、秀吉は病死してしまいます。

秀吉以外出兵など反対だったので、秀吉が死んだら皆サッサと引き上げた、秀吉の妄想に付き合わされた大名達は大変迷惑だっただけ……みたいな説が幅を利かせていましたか、実際は違うのではないかという説が出て来ています。
日本は、権力者と僅かな側近だけで方針を決めてしまい、有力大名の意見も聞かずに命令するだけ、という権力者はあまりいません。
織田信長も秀吉も判断決断の切れ者だと思いますが、有力者達と情報は共有していた様です。
朝鮮出兵を決断した秀吉は死んだし、懸念だったスペインの明への影響力は無くなりそうだし、「もう明へ攻め入る必要無くなったから帰ろっと」という事で、秀吉の死から数ヶ月で引き上げてしまいました。

因みに、ネーデルラントのスペインからの独立戦争が激しくなった原因のフェリペ2世は、秀吉が死ぬ1週間ぐらい前に死んでいます。
日本が朝鮮から引き上げた時点では、フェリペ2世が死んだ事は日本は知るよしもありません。数ヶ月で情報が届く時代ではありませんから。
スペインの王の死亡を知らなくても、「スペインはもう無理だね」という情報が入って来たのでしょう。

かくして日本は、暫くの間外国から平和を乱される事無く過ごせたのでありました。

それにしても皮肉なものです。
戦国の世が長い間続いて鍛え上げられていた為、鉄砲に対する反応も速く、軍事力の強大な国家だった事が残虐なヨーロッパの国々の餌食にならずに済んだ大きな理由になりました。
昔と変わらないのは、弱いと食われるって事。
ロシアは、ウクライナがここまで反撃して来ると判っていれば、攻め込んだでしょうか。
ドネツクやルハンスクが独立宣言したのだって、ウクライナが弱いと判断したから独立宣言させたんだと思います。
密かにロシア軍人などを送り込んで武力行使したけれど、ウクライナの軍は弱い、ってんで今回の侵略を行った、と。

弱かったり軍事力が無いと、ヤッパリダメなんですね。