何か根拠となる資料でも有るのだろうか。
倭国軍の、朝鮮半島への派遣は3年間にも及んでおり、それは唐軍も同じだった。
倭・百済連合軍🆚唐・新羅連合軍というより、主に戦っていたのは倭と唐だったのだと。百済と新羅は、申し訳程度にしか戦わなかったのだと。
倭国にとって百済は大事な防衛線であり、百済は滅びたくない。唐にとって新羅は高句麗を倒す為には滅びられては困る国であり、新羅は滅びたくない。
百済も新羅も滅びたくないし、新羅は百済の地が欲しいし、百済は復興が成功すれば次は新羅の地。
なのに、百済も新羅も戦いは申し訳程度。百済は一旦滅びているから、戦力が低くなっているとはいえ、倭国にオンブに抱っこ。新羅はズルい事でも考えていたのか、唐軍が主に戦っていたのだと。
新旧の唐書や日本書紀等には、そんな書き方はされていないそうだが、私が初めて聞いたこの話では、倭軍も唐軍も「なんなんだよ、いったい」な気分になっていたんだとか。
やってられるかとでもなったのか、倭軍と唐軍は「お互い一旦引こうや」との話になり、講和したそうな。
倭も唐も、引く引かないは現地の者が決める事ができたようだ。尤も、引いた事を後に裁定されるというのは、歴史上何処も同じだ。通信が発達していない時代なのだから仕方がない。
講和が成った倭の水軍は、軍装を解いて帰国前の酒盛りを船上でやっていた。これは、唐軍も同じだったのだと。
だから、倭軍も唐軍も火矢の餌食になって大被害を出したのだと。
くつろいでいたというのだから、船と船を接近させて停泊していたのだろう。連なっている船へ、火矢を撃ち込む事は容易い。燃え広がりもしやすい。
唐軍の損害は言っていなかったが、倭軍は1万人が戦死したのだと。唐軍が、自国兵を犠牲にしてまで倭軍を叩いたのだろうか。唐の時代既に、こういう精神文化がChinaの地に成立していたのだろうか。
それとも新羅がやったのだろうか。
私は、資料を読んだ事は無いし、第一読みこなせないから、そういう見方もあるのかと思うしかない。
この見方、資料を読み解いた結果の話なんだろうか。それとも、そう書かれた資料が存在しての話なのだろうか。
日本は昔から出鱈目だった、という前提で研究する専門家が跋扈しているので、実際のところや側面が伝えられていないとは聞く。自身も誇りも持つなと言わんばかりな現状なのは私も感じる。
そんな連中が学問の世界を牛耳っている為、日本や日本人を貶められ続けて来た日本人が、こういう話に飛びついてしまうのは、人間として当たり前だ。
この話が、今までの研究より史実に近いのかどうかは私には分からない。
が、結論(日本はクソ)ありきの様な研究?の垂れ流しがなされて来たのではないか、という疑問を持つ為の一石になるかもしれない。